「政治国際の教科書どこにあるか知らない?」
娘に聞かれました。寝る前に。
もう寝たいのにこのタイミングで?
朝言われるよりはいいか。
小学生あるあるランキングで絶対上位に入るやつですね。
「あ、ノート新しいの買わなきゃいけないんだった」
「明日空のペットボトル持ってく」
給食当番の白衣が月曜の朝に発見されたり、
「明日お弁当の日だった!」と言われるよりはマシか。
で、政治国際の教科書が自分で精一杯探したけどみつからないんだとさ。
そんなわけあるかい、とぶつぶつ言いながら、そして眠気と闘いながら娘と一緒に探しました。
…無い。無いね。
心当たりがあるとすれば、数か月前に要るもの要らないものを仕分けた時に要らないものの山に娘が置いた可能性。
その時低学年のころの教科書を結構処分したんですよね~。
間違えて要らない判断しちゃったんでしょうね。
それしか考えられない…。
「もうこれは、間違えて処分したと正直に言うしかないでしょ。無いんだから。多分この前捨てたあの中にあったんじゃない?そうとしか思えないよね?」
と伝えて学校に行かせました。
帰宅してきた娘に、
「ちゃんと伝えて授業乗り切った?」と聞くと
子「言えた。授業の前の休み時間に言いにいった。」
母「間違って捨てたって言ったの?」
子「いや、紛失したかもしれません…て言った」
なんで??そこ別にぼかさなくてもよくない…?
と大人の私は思いましたが。
「すごく怒られると思って、緊張してびくびくしながら言いにいったら全然怒られなくて、じゃあ、これ。先生の使って、て普通に教科書貸してもらえた。よかったー。」
と言うのです。
はい、ただこれだけの話なんですけれども。
ここで私には大きな気付きがありました。
ウチの娘は小学6年生で、最近口も達者です。
かなり大人びてきました。
だけどね、やっぱり生まれてから12年分の経験値しかないんだなって。
大人からしたら、なんだそんな事。
たいしたことないじゃん、気にすることないようなことじゃん、と思うようなことでも、本人にとっては一大事でめちゃくちゃ考え込んだりしていることもあるんですね。
「間違えてしまったとはいえ、まだ使う教科書を捨ててしまったなんて。何て先生に言えばいいんだろう…。」て思いながら登校したようです。
筆者は比較的楽観的で、あまり細かい事に悩みません。
日々、ストレスもあまりないほうかも。
だから、子どもにも、もしかしたら日々接するお相手にも、大なり小なり何か相談されたときに、
「気にし過ぎだよー!それくらい大丈夫」
とか安易に言ってしまってるかもしれない。言い方気を付けようって思いました。(言っても大丈夫なことももちろんあるけど)今回はそういう話の展開になってなくてよかった。
自分の常識は必ずしも他人の常識ではないなって思うことも多いし。
『誰かにとっての正義は誰かにとっての悪になる』てばいきんまんだって言ってる。
「~が当たりまえ!」
「普通は~だよね。」
こういう言い方には結構危険が潜んでます。
「なんだ、そんな事?」
「たいした事じゃないでしょ」
ていうのも、時と場合によって、言い方によっては地雷になる。
そして何より、思春期の子どもたちは、せっかく大人に相談したのに自分が伝えたいことが届いていないと感じたら心を閉ざすでしょう。
この人に言っても分かってもらえないって思われたらおしまいだ。
子どもから、いつも繋いでた手を離して数年経ち、最近では目も離し始めて一人で習い事に行ったり、子どもが自分で築いた、私の知らない人間関係の中で生きるようにもなってきました。
ネイティブ・アメリカンの子育て四訓で言うと、今は心を離さないように、子どもを信じて少しずつ目を離していく時期に来ています。
親も信頼を得られるようにしないとね。
今の経験値だけでは、やっぱり判断を誤ることもきっとある。
だから大事な時にはちゃんと相談相手として信頼されていたいと思います。
子どもが大人びてきてる部分と、まだまだ可愛いところ、日々色々発見します。そんな中で、子どもにとっての一大事をただただ「たいしたことないよ」って笑い飛ばすことはきっとダメなことだろうな、と思った出来事でした。
参考)子育て四訓
・乳児はしっかり肌を離すな
・幼児は肌を離せ、手を離すな
・少年は手を離せ、目を離すな
・青年は目を離せ、心を離すな